最近暇な時に「大衆」という言葉が気になってWikipedia記事「大衆」を見ました。「大衆」の定義はアイマイだけど、権利をもたない側の大勢とか知識をもたない側の大勢とかが紹介されています。そういえば近頃、鉄道の車掌やバス運転手に「大衆相手にたいへんですね」と同情する事が何度かありました。鉄道やバスの利用者、いつの時代もルールを守らない人がいるんです。例えば、かけこみ乗車で無理矢理乗る人、これを全部許してると発車が遅れてしょうがない。一人に同情してドア閉めないと乗客200人が迷惑を受ける。だからここでは車掌なり駅の係員が「コラ!」とかけこみ乗車をしかってもいいんですが毎度どなるのも体力が必要です。新聞に時々のる「ドアにはさまれて乗客ひきずられ」なんていう記事、はさまれた乗客を一方的に援護する記事を読むと「この乗客、被害者なのか、それとも迷惑かけた加害者かな」と半分疑ってしまいます。僕の毎日の生活でも、管理される「大衆」側につく時と管理する「管理人」側につく時の両方があるんですが(30歳、40歳と次第に管理側が増えました)100人とか1000人とか、おおぜいを相手にすると、必ずルール守らない人に出くわして、その対処に手間をとられるというのを実感します。別に社会人でなくても大学生で宴会幹事やっても管理側でして、メンバー数人で「俺は絶対に座敷」「焼酎の豊富な店!」「交通の便利なとこ希望」「値段優先」とかワガママな人間が必ず出ます。これが社会の縮図という事でしょうか。僕がルールを破りやすいのは何かの原稿提出締め切りというがよくありますが、これについてはまた後日書くということで本日は(ごにょごにょ以下省略)
コメント
ある行動に対してその人の心情を理解できるということと、社会的な結果責任というのは別と考えた方がよさそうです。
加害者、被害者というのは社会の中で定義される言葉なのでしょうから、結果責任からすると電車のドアに挟まれるやつなんて加害者に決まってます。飛び込み自殺も焼身自殺も飛び降り自殺も加害者の側面が大きそうですね。
どちらかというと肉片を拾い集めたり、焼死体を解剖するひとたちのご苦労の方が私には理解しやすいです。
危険を察知する力、結果を予測する想像力が欠如することが大衆の条件では。。。
私もその日の体調や心理状態で大衆と管理人を行き来していますよ(^^ゞ たまに大衆と管理人が同席して葛藤します。
※たとえがリアルでもうしわけありません(._.)
コメントどうも。
心情を理解できても、社会的な結果責任は別だと。
なるほど。参考になります。飛び込み自殺てホントに
迷惑な存在ですからねえ。